2008年12月31日水曜日

映画以上でした。


 今年4月(だったかな)、JALの関空臺北便で映画「フリーダム・ライターズ」を見たんだけど、映画が終わる前に臺北に着いちゃって、すごく欲求不満がたまった。とても引き込まれていたから。
 帰国後、ツタヤでDVDを借りて改めて見たら、やっぱりおもしろかった。
 で、原作。映画ももちろん素晴らしいけど、高校生たちの日記を読むと、その肉声が伝わってきた。涙が出るほどでした。精いっぱい生きるって、なかなかできないなぁ、だけど、この本に出てくる米国の高校生たちは知らぬ間にそういうふうに生きているなぁ、と。
 私は生きていないなぁ。自分自身を振り返りながら、エネルギーを吸収。
 2008年12月31日読了。

見て歩くこと


 私はそんなに外国へ行ったことないし、行ったとしても、もちろん短期の旅行。ベトナムとカンボジアがすごく楽しくて、良い旅行になったと思ってる。
 だけど、裏道を歩いたり、そこで(旅行者としてではなく)生活者として暮らしている人たちの話を聞く機会はなかったなぁ。短い時間でいいから、行ってみればよかったなぁと。
 思えば、今暮らしている私の街のことも、知っているような知らないような。足下を確かめておかなきゃって気分になった。だけど、どうやって?。
 梁石日「闇の子供たち」。2008年12月29日読了。

2008年12月29日月曜日

デザインとキャラ


 惹かれますね、スナック菓子のパッケージ。臺東縣成功鎮で、臺東行きをバスを待っている時に撮りました。2006年5月27日。臺灣のバス停って、バス停の表示だけが歩道に立ってる場合もあるけど、通り沿いの雑貨店でバスの切符が売られていて、案内所みたいな役割になっていることがありますよね。このスナック菓子は、バス停の前にある雑貨店の商品棚に並んでいました。
 見慣れているはずの漢字でも、そればっかり並ぶと、新鮮。同じ文字を使っていても、全然違う言語なんだよってことをはっきりと見せつけている感じ。
 キャラの風合いが違うのは、なぜなんでしょうか。デザインする人たちのなかにある、おもしろさとか美しさとかを感じる傾向があるってことなんでしょうか。台湾には台湾なりに、日本には日本なりにという感じで。それとも、取り扱っている広告代理店が違うからとかそんな背景があるんだろうか。

2008年12月25日木曜日

明日の天気は…


 波照間島に来ています。

 ご存じ、有人島の日本最南端です。

 明日は天気が崩れそうです。船は出るかなぁ。

2008年12月22日月曜日

与那国空港


 とっても良い天気だったので、知人とドライブ。馬鼻崎へ連れてってもらい、「ゲド戦記」の 「テルーの唄」を聞いたりしてました。といって、いつまでも、そこにいるわけにはいかず、飛行場へ戻ろうとしたところ、この風景でした。2008年12月20日。
 この飛行機に乗って、石垣島へと向かいました。
 今日(22日)は小雨模様で寒く、この好天が嘘のようです。

2008年12月21日日曜日


 市場って、ふだんの生活では見ることのできないものが活躍しているから楽しい。

 南方澳で競りが始まるのを待っていたところ、荷車付きのバイクがやってきたので、興味をそそられました。積荷は氷。魚には欠かせないものですね。タイヤがスリップするにもかかわらず、何度かエンジンを吹かして、狙いの場所に、しかもバックで、ぴたり。なかなかなもんです。

 2008年11月15日撮影。

2008年12月19日金曜日

突き船




 釣るというのではなくて、「突く」ための船なので、突き船といいます。カジキ漁専用の漁船で、台湾の東海岸にある漁港にいくと、目にすることができます。これは蘇澳鎮の漁港、南方澳で2008年11月15日に撮影したものですが、私はこれまでに成功鎮の新港と花蓮港で見たことがあります。



 船首から突き出ているのだ「突き台」という足場で、銛を構えた船員がここに乗り、カジキを突きます。




 私の大好きな与那国島でも過去にはずいぶん盛んだったそうですが、今は1隻もありません。去年、与那国島の人と一緒に花蓮に行った時にも突き船に遭遇。与那国の人は「突き台だけ持って帰りたい」と懐かしそうでした。

2008年11月25日火曜日

清酒和秋刀魚


 台湾で「サンマ」のことを「秋刀魚」と書くのが正しいのかどうか分かりませんが、2008年11月16日夜に訪れた南投市の「南投第一味鄉野小吃 」(南投縣南投市集賢路10號)のメニューには確かに「秋刀魚」と書かれていました。70元。ついでに、清酒も注文したところ、燗酒が1本出てきました。「小」というやつで、90元。月桂冠だそうですが、猪口には「松竹梅」、徳利には「菊正宗」とありました。
 どうでしょうか、このサンマ。最初から切り分けられて出てきました。
 南投縣は台湾にある18の縣のなかで唯一、海がありません。バスで、台北から3時間余り、台中からでも1時間ほどという内陸の地なので、海の新鮮な魚を手に入れるのは難しいことになります。
 その点を考えると、南投へ来て、清酒とサンマ、それに寿司で食事ができたということにまず感謝したいですね。私はそもそも、日本酒はほとんど飲まない生活をしていますし、この日は別の店で夕飯を済ませていたので、あえてこの店に入る必要性はなかったんです。 「南投第一味鄉野小吃 」の店の外に赤提灯がずらりと並んでいるのを見付け、足をそちらに向けたというだけの話です。
 偶然から味わうことになった日本酒とサンマ。八重山でもなかなかこういう組み合わせはないですね。八重山は日本だけど、その日本ではほとんどトライしない組み合わせを、台湾で味わうというのも悪くありません。台湾が昔日本の植民地だったからかなとも思いましたが、それは飛躍というものでしょう。

南投的寿司

   台湾で食べる寿司には賛否両論ありますよね。2008年11月16日夜、南投市を訪れた折り、「南投第一味鄉野小吃 」(南投縣南投市集賢路10號)という料理店を見付け、総合寿司を注文してみました。100元。
 台湾で食べる寿司って、日本にはないはずの甘みがあったりして、正直なところ、抵抗がないこともないです。この南投の寿司、実はこの甘みがかなり強かった。
 台南の山根寿司はさすがに「台湾的寿司」の有名所だけあって、味も磨き上げられているような気がしたものです。
 だけど、姿は寿司だけど、味は(日本の)寿司じゃないという台湾的寿司も、私にはなかなか魅力的なもの。
 この日、私は国光客運のバスで南投へ来たのですが、台北南投間の所要時間3時間余りを過ごすために台北西站で買い求めた軽食は、パック詰めの寿司でした。味は南投第一味鄉野小吃の総合寿司よりやや薄め。どちらかといえば、こちらのほうが私の口に合うかなとかなんとか、勝手な評論をしながら南投までやってきたというわけです。

 思えば、ラーメンって中国から来たわけですよね。だけど、台湾であまた売られている麺のなかから、日本のラーメン(たとえば、飲み会の後に、帰宅前に軽く食べていくようなヤツを想定)と同じものを探すのは至難の業。カタカナで「ラーメン」と書かれた表示を台湾で見付けたとしたならば、それはほぼ、間違いなく、日本から逆輸入した日本的な「ラーメン」であることでしょう。
 ラーメンと同じように、寿司も中国と台湾、日本を行ったり来たりしながら、じわじわと味を変化させていくのかな。

2008年11月5日水曜日

円高5

 美國で民主党大統領が誕生しました。元とドルはどうなっているのかな。
 台湾元6074元は1万8253円。500美元は4万9360円。どちらも、そんなに変化しないもんなんですね。(Yahoo!のサイトでの調べ)。
 依然として海外旅行には行きやすいということですね。

2008年10月31日金曜日

円高4

 私の台湾元6074元は、1万8152円になりました。昨日の1万8272円から120円安くなりました。一喜一憂してるわけじゃないんですが、細かく変動するもんなんですね。
 500美元はというと、Yahoo!のサイトで調べたら、4万9310円になっていて、25円という僅かな金額ですが、こちらは値上がりしています。一気に5万円台になるなんてことはないんですね。

2008年10月30日木曜日

円高3

 今日も台湾元6074元です。Yahoo!のサイトで調べたら、日本円にして1万8272円でした。2日前より1000円回復しました。じりじりと台湾元が値を上げていますね。どこまでいきますかねぇ。
 で、もう1つ注目の500美元ですが、こちらは4万9285円。3日前の購入価格より645円の値上がりです。1ドル98.57円なので、銀行での交換したときのレートより1.29円高くなってます。
 今日の午後、麻生首相が新しい経済対策の中身を記者会見していました。財源をどうするかということになってくると、消費税を上げるという話が出てくるのでしょうか。その議論をしている時期と、衆院選の時期って、もしかしたら重なるんじゃなかろうか。選挙のときに税金を上げるっていう話は、普通なら、したくないところですが、今回はどういう様相を呈するのでしょうか。

円高2

 台湾元6074元。今日もYahoo!のサイトで日本円に換算してみました。1万7765円になっていたので、昨日より500円近く台湾ドル高、円安になったということですよね。当面の目標は2万円。何日かかるかなぁ。

2008年10月28日火曜日

円高

 手元にある台湾元は6074元。Yahoo!のサイトで現在の価値を調べてみたら、1万7296円になっていました。円高の影響がありますね。以前は3000元で1万円というふうに見積もっていたので、2万円にはなっていたと思います。だから、価値は3000円ほど目減りしたことになります。
 それで、というわけではありませんが、ドルを買ってみました。銀行の窓口で500ドル買ったところ、4万8640円でした。銀行の窓口は為替相場と直結しているわけではなく、手数料を差し引かれるので、1ドル97.28円のレートでした。
 この先、どう変化してくことやら。

2008年10月26日日曜日

元宵節

旧暦1月15日の元宵節(yuan2xiao1jie2)に合わせて台北市政府前の広場でいろいろなイベントが行われていました。元宵節に合わせて飾る習わしになっている灯籠はご覧の通り。
 2005年2月25日の撮影です。この年の元宵節は2日前の23日ですが、灯籠はもちろん、音楽イベントも行われていました。25日は金曜日でなかなかの人出でした。

新營


 3年前の2005年2月27日に撮ってきた写真なのですが、心にひっかかりを覚える1枚です。この写真は、太平洋戦争末期に石垣島の人たちが疎開していた場所の現在の姿を写したものなのですが、そういう事典的な意味付けもさることながら、たたずまいそのものが心の隅から離れません。

 印象深いわけでもなく、ぱっと目を引くわけでもないけど、あまりに普通すぎて、かえって記憶されてしまったのかもしれません。台湾の地方都市なら、どこにでもあるような建物であり、また、典型的な風景。日曜日だったからかもしれないけど、人気もなくて、さむざむとしている。「事典的な意味」がなければ撮らなかったであろう写真ですが、その意味を離れて、気になるカットになってしまいました。

 台南県新營市。台南県の県政府(県庁)があります。

 ここを撮影している私の背後、この建物の向かい側の辺りは製糖工場になっていて、今は操業を停止していますが、日本時代から操業していました。戦争中には攻撃目標にもなっています。

 新營に疎開していた男性の話。

 「製糖工場の倉庫が燃えたときはね、燃えた砂糖がコールタールみたいに真っ黒に排水溝を流れる。砂糖が燃えたら、簡単に消えない。倉庫が焼け終えたあと、倉庫の中で燃えた砂糖を上から掘り下げていくと、下にはまだちゃんとした砂糖が残っている。少し色が付いて、茶色か黄色くなってるし、においもしてるけど、食うモノがないから、あれを腹いっぱい食べて、お腹壊したよ」。

 とにかく食えなかったらしいです。

2008年10月22日水曜日

鹿谷のワンタンメン


 なんの話をしていたのか忘れましたが、私が「日本から来た」という話をしたのをきっかけに、日本がらみの話題で盛り上がったのでありました。なんだったかなぁ。思い出せないのがもどかしい。
 2006年12月2日の朝はこの店でスタート。ワンタンメンをいただきました。

鹿谷の土地公


南投県鹿谷郷で見付けた土地公の祠。2006年12月2日の朝、鹿谷の町を散歩していて見付けました。左側を通過していく車と比較してみてください。遠近感の関係で、大きさを正確に比べることはできませんが、小ささは分かってもらえると思います。こじんまりとしたところが、かえって目を引きました。

鹿谷。


 南投県鹿谷郷。1999年9月21日に起きた大地震で甚大な被害が発生した地域だと言えば、「あぁ、あなるほど」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
 太平洋戦争末期の1944年から1945年にかけて、基隆に住んでいた八重山出身者が鹿谷に疎開していたことがあります。体験者のお話によりますと、彼ら・彼女らが住んで地域が接収されることになり、鹿谷に移住することになったということです。八重山出身者だけが鹿谷に疎開したというわけではなく、その地域の人たちがまとまって鹿谷へ移ってきたと考えるとつじつまが合うかもしれませんね。
 私は2006年12月に鹿谷を訪問した際、鹿谷郷戸政事務所を訪問し、転入に関する当時の記録を閲覧させていただきました。戸政事務所は戸籍を取り扱うセクションです。
 閲覧の結果、1945年3-5月に基隆から鹿谷に移り住んだ沖縄出身者は少なくとも12家族合わせて39人だったことが分かりました。

 私が鹿谷を訪問したのはこの時と、2006年の5月と6月。お茶所で、朝がとても気持ちの良い村です。また行きたいと思っているのですが、なにせ、山の中。簡単には行けません。台北からだと、バスで3時間余りかけて南投へ行き、そこからタクシーで40分ほど。台北からの日帰りはお勧めできません。鹿谷で過ごす時間が短くなるということもありますが、山村の村特有のひんやりとした空気を味わうことをお勧めしたいからです。

 この写真は土地公廟で、別の記事で紹介した土地公の祠を大きく撮影したものです。朝の鹿谷を散歩しながら、食事のできる店を探していたところ、ワンタンメンを食べさせる良い感じの店があったので、まずはそこで朝食を済ませ、宿へ戻る途中に少し大回りしながら町を歩いていたその道筋で発見しました。
 タイルの大きさは、日本でも風呂場や流しなどで使われいるようなサイズです。だから、祠そのものがとてもこじんまりとしていることが分かりますよね。古びてはいますが、手前に使い込まれたポエがきちんと置いてあるところを見ると、それなりに信仰を集めていることが伺えます。

2008年10月14日火曜日

新富町

 台北市萬華区大理街。2007年9月3日。MRTの龍山寺站と臺鐵の萬華站の間に位置する通りです。龍山寺站に降りてから、龍山寺のほうへ行かずに、その反対側へ降りると、この辺りに出てきます。私は実際、そのようにして歩いて、ここへたどり着きました。
 人と人の密着ぶりがいいですね。距離を感じさせない親しさに、見ている私の方も親しみを覚えます。
 ここは服を売る店ばかりが並んでいて、愛用の地図帳「大台北全覧 百科地圖」(戸外生活圖書社)には「成衣批發街」と書かれています。成衣(cheng2yi1)は「既製服」、「批發」(pi1fa1)は「卸売り」の意味なので、既製服の問屋街ということになりますね。
 臺灣で面白いのは、似たような商売をする店が固まっている通りがたくさんあること。買う人、仕入れる側の身になって考えると、とても合理的なんですが、売る側が大変だろうなと思ってしまう。過度の競争が起こらないようにするための仕組みとか、商慣行とかがあるんでしょうかね。
 日本時代、この辺りは新富町(しんとみ・ちょう)という地域で、沖縄の人たちがたくさん住んでいました。「臺北市民住所録(内地人ノ部)」(昭和16年版、1940.12.)には、沖縄出身者の名前が655人分掲載されていて、住所別で見ていくと、台北駅北側に位置していた建成町が103人(15.73%)で最多。その次に多いのが新富町で、49人(7.48%)。この住所録が沖縄出身者をすべて網羅しているとは思えないのですが、当時の台北市のなかで、沖縄出身者が比較的集まっていた場所だったということは言ってもいいでしょう。
 新富町に姉が住んでいたという石垣島のおばあちゃんから話を聞く機会がありました。このおばあちゃん、姉が住んでいた場所が新富町だったとすぐに思い出すことができず、「マンカに住んでいた」と言ってから、「新富町」と付け加えました。繁華街だったマンカのイメージが強かったのでしょうね、きっと。姉宅を訪問する時、マンカの駅を利用していたので、あるいはそれが印象に残っていたのかも。

2008年10月7日火曜日


 「顔にこんなにいっぱいツボがあるのか?」
 
 一瞬驚きましたが、良く読めば、ほくろ占い。
 
 被写体が豊富な台湾。これまでいろいろと衝撃的な被写体に出会ってきましたが、そのなかでも、一番気に入っているカットの1つがこれ。
 
 2005年2月26日ですから、もう3年半も前の撮影になります。2度目の訪問となった嘉義での撮影です。
 
 台湾に行くと、今ではホテルでインターネットができるのは珍しくないし、ネットカフェがあちこちにありますが、このときの嘉義ではインターネットのできる場所を探すのが結構大変で、それは私の中国語では現地の人にその場所を尋ねることができなかったということも関係があるのですが、ともあれ、かなり長い距離を、確か20分ぐらい歩いて、インターネットカフェへ行ったのでありました。
 
 この「顔」に出会ったのは、そのときのこと。ネットを終えて、宿へ戻ろうとしていた時のことです。嘉義の中心街からやや離れたところで、住宅街との境目辺りだったと記憶しています。夜の9時半ごろになって撮ったんですが、なんでこんな人通りの少ないところにあるのかと疑問でした。昼間はにぎやかなところなのかもしれませんね。
 
 再訪したい気もしますが、この看板がなくなっているかもしれず、そしたらさみしいなぁ。

2008年10月4日土曜日

龍潭

 台湾北部の桃園県に龍潭という街があります。台北市内まで車で通勤できない距離ではないらしく、最近はベッドタウン化が進み、人口は11万人。それでも、落ち着きを感じさせる街です。龍潭池という大きな水辺があるからかもしれません。

 1944年夏、この街に疎開者たちがやってきました。沖縄県の石垣島の人たちで、基隆経由でここまでやってきました。当局の指示による移動だったため、連れてこられたという表現が適切かもしれません。人数は100人ぐらいではないかとみらていますが、正確な数字は分かりません。

 彼ら疎開者の状況については、終戦から4カ月経った1945年12月に、龍潭を含む大溪郡に残っていた疎開者について記した台湾側の文書「運送大溪郡琉球列島日籍居民返籍案(大溪郡居住の沖縄出身日本人の送還について)」があります。要旨を紹介しましょう。
 「日本が無条件降伏し、日本政府の特別手当に頼って生活することができなくなったが、日本政府はいまだに手だてを講じることができない。ゆえに、生活困難のため、疎開者はみな心を悩ませている。大溪への疎開者のうち、すでに80人は琉球に帰還した。そのほとんどは蘇澳港から漁船で琉球へ向かった。船賃は大人か子どもかにかかわらず、1人300元以上、荷物は1個100元以上」
 ここで「蘇澳港」と表現されているのは南方澳のことだと思われます。実際、龍潭での疎開を体験した人のなかには、終戦を知るといち早く南方澳に移動し、そこから石垣へ帰っていったという経験の持ち主がいます。
 文書はさらに次のように続いています。経済的な問題が深刻になっていたことが分かります。
 「実際、この高さのため、船賃を工面できず、島に帰れない者が50人いる。調べたところ、その生活は非常に困窮している。もし、政府(中華民国政府)が救済策を取らなければ、餓死のおそれや窃盗などの不法行為が発生するおそれがある。このような疎開者は全島になお多数いる。今、琉球列島はすでに平静になっており、政府には、島内の琉球人を早めに送還し、事件が起こるのを防いでほしい」
 困窮故に犯罪まで起こりかねないほど、疎開者たちは追い込まれていました。
 このように、八重山など沖縄から疎開してきた人たちは1万人以上にのぼりました。太平洋戦争末期という時代のせいでしょうか、彼らの足取りを示した文書が限られたものしかありません。ですから、この「台湾疎開」を知るうえで、体験者たちの証言は重要です。八重山と台湾の間に横たわる歴史の断面の1つを、そこにみることができるのです。

2008年10月3日金曜日

龍山寺




 古いものと新しいものが渾然一体となっているのが、台湾の魅力だと言ってもいいし、わたくし自身にとって、何が新しいものであり、何が古いものなのかを気付かせてくれるのが台湾の魅力だといってもいいと思います。


 2007年9月3日、龍山寺に初めて足を踏み入れました。台湾で寺院では、老若男女を問わず、人びとが常に熱心に祈っていますよね。今でも、若い人たちが細長い線香を手に祈る姿は新鮮で、そのような姿を日常的に見ることのできない私にとっては、今もって珍しいと感じられる姿です。


 龍山寺でさらに新鮮だったのは、見る角度によっては、近代的なビルディングに囲い込まれているような錯覚に陥ること。さらに、そのビルディングを包む全面鏡張りのような窓には、一昔前は最先端であったであろうビルディングのその古ぼけた姿を見せています。私のなかでは、寺院や寺院で祈る人びとの姿は古いものと感じられ、近代的なビル群には新しさを、古ぼけたビルには自らと同じ位置関係を感じられているということなのだと思います。


 龍山寺に足を踏み入れ、祈る人びとの姿をカメラに収めようと試行錯誤するうちに、新旧に対する自らの受け止め方を再確認させられることになりました。

2008年10月1日水曜日

昔の琉球人集落


 考古学者の国分直一が南方澳を訪問しています。「民俗台湾」4巻12号に寄せている「海邊民俗雑記(1)」という論文がその訪問記に当たります。この論文のことは、1999年度財団法人交流協会日台交流センター歴史研究者交流事業報告書に「国分直一と《民俗台湾》」(陳艶紅)という論文があったのを読んで、知りました。

 さっそく論文のコピーを取り寄せて読んでみますと、その内容もさることながら、執筆時期が「昭和19年9月15日」となっていることに驚きました。1944年9月15日ということですから、あと1年以内に太平洋戦争が終わるという緊迫した時期に当たります。戦前の南方澳について書かれた論文としては、私はこの論文しか知らないのですが、ほかにもあるのでしょうか。ご教示願いたいところですが、ともあれ、当時南方澳にいた沖繩人の様子を記録した貴重な資料が、終戦間際に作成されたということは留意しておきたいものです。

 国分は次のように書いています。

 「沖繩系漁民は非常に早い時期から遠洋に漁撈し、遠國に移民してゐる。蘇澳郡南方澳にも30數年前に來たといふ漁民がゐる。勿論自由移民である。(中略)我々が採訪したのは自由移民村である」

 南方澳には、台湾総督府の募集に応じて四国や九州から移民が行われており、これは官営移民ということになります。それに対して、沖繩の漁民は任意に自由意思で南方澳へ来ていたので、「自由移民」と表現しているわけです。

 この写真は、自由移民村があった地域で撮影したものです。2007年8月29日。

 バイクが走っているこの道は当時はなかったのではないかと思われます。その向こう側に船溜まりが見えますが、この場所が当時は陸になっていて、集落が形成されていたようです。大きな池もあったといいますから、湿った土地だったのかもしれません。当時、この地域で暮らした経験のある人たちはこの辺りのことを「裏南方(うらなんぽう)」と呼びます。
 国分によれば「この村の20數戸の人たちは古くは30數年前、新しくとも10數年前に來た人たち」なのだそうです。これは沖繩からやってきた人たちのことを言っているもので、出身地は中頭郡、国頭郡、島尻郡、宮古、八重山、那覇、与那国とあります。
 私の最近の主要な研究テーマはこの裏南方の社会を解明することにあるのですが、生活経験者を探し当てるのは容易ではなく、今までにインタビューできたのは3人にとどまっています。論文はといいますと、国分論文は日本語だからいいのですが、中文の「南方澳空間變遷的歷史社會分析」(洪頌評)というものも読まなければなりません。頑張らねば。

2008年9月30日火曜日

有村海運


 有村産業のフェリーは便利で安いので、私は年に何度か利用していたものですが、それも2007年8月28日が最後になってしまいました。基隆に接岸しようとしているとき、なんとなくおもしろいなと思って撮ったのが、有村の船上でシャッターを切った最後のフィルムです。
 有村産業は会社更生法による更生計画によって会社の再建に取り組んでいたのですが、世界的な原油高で燃料調達コストが高くなり、更生計画通りに債務を返済することができなくなったのですが、筆頭債権者である政府系の独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が更生計画の変更を拒んだため、倒産に追い込まれたと言うこともできます。2008年6月、有村のフェリーは南西諸島や台湾での運航を停止しました。

 台湾と沖縄、つまり、台湾と日本を結ぶ航路を、なぜ残そうとしなかったのでしょうか。いろいろな理由があるのだとは思いますが、残念でなりません。石垣島や八重山諸島は、台湾とお隣りにあるというのに、那覇まで飛行機で行って、そこから中華航空に乗り換えて、台北まで飛行機で行かなければならないのです。もう、そのルートしかない。ずいぶんな金額になってしまいます。何より、不自然です。隣に行けないなんて。
 有村のフェリーなら、多少時間はかかるけど、ダイレクトに行けた。それに、安かったしね。時間がかかるといっても、船内では仕事もできるし、眠ることもできるし、読書もできるし。素敵な空間だったと思います。

 だから、私もよく利用しました。

 辺りにまったく島影の見えない孤独な海を甲板から眺めていると、いろんなことを考えたり、逆に思考が消え去ってしまったり。快晴の空から日差しが照りつけているから、頭もふだんと違ったふうに回転していたのでしょう。海鳥がずぅっと追走し、海に飛び込んだり、海面から飛び上がったりするのもおもしろい。しばらくすると、台湾東部の島影が見え始め、その山容に見入り、手前にぽっかり浮かぶ亀山を眺めているうちに、基隆入港。

 こんな船旅、復活してくれないかな。

2008年9月29日月曜日

南方澳的餐廳


 捕れたばかりの魚介類が店先に並んでいます。トレイに収まった食材のうえには、ペットボトルがあるのが見えますが、そのなかには、透き通った液体が入ってますよね?。そう、ご想像の通り。これは水を入れて凍らせたペットボトルを保冷剤に使っているのです。

 このキラキラ光った魚はなんというのだろうか。食通だったら、すぐに何何と分かるんでしょうけど、ここに写っている食材のうち、私にはイカしか分からない(これも、きっと、「何何イカ」という表現があるのだろうなぁ)。

 だけど、名前が分からなくても大丈夫。食事はできます。この中から好きなものを選び、調理方法を伝えて、店内に入って、料理ができあがるのをテーブルで待てばいいのです。そういうのが苦手という人は、まず店内に入ってしまって、メニューから好きなものを選べばOKです。

 私が初めてこの店に来たのは2007年8月30日。2度は2008年9月3日で、この写真はその時の撮影です。蛤のスープとか、イカの炒め物とかを作ってもらいましたが、言うまでもなく、美味。無言で、とは言いませんが、話をする時間ももったいないとばかりに、箸とスプーンを動かし続けました。

 南方澳という港町にあります。台湾東部の宜蘭県蘇澳鎮です。

 南方澳は、航海安全の神、媽祖を祀った廟「南天宮」(道教の寺院)で知られていますが、この店はその南天宮のはす向かいに位置し、江夏路(jiang1xia4lu4)という通りに面しています。

 この店を知ったからというわけではないのだけど、南方澳は四季を通して歩いてみたい街です。言うまでもなく、それは、春と秋、冬の海の幸を試してみたいから。台湾東部の海は、八重山の海とつながっているはずだから、捕れるものも似ているのかなぁ。冬場の、たとえば、マチとかがあったら、食べてみたいものです。

2008年9月28日日曜日

南方澳

 「産地直送」なんてわざわざ言わなくなって、漁船を係留した岸壁の目の前で売っているのだから、捕れたものをそのまま売っているのは当たり前のこと。
 宜蘭県蘇澳鎮の南方澳。売り手の女性(腰掛けている)の後ろ側には南方澳の第2魚市(魚市場)の建物があります。向こう側に見えるのは南方澳跨港大橋で、南方澳を出入りする船は必ずここをくぐっていきます。
 この写真は2008年9月3日の午後4時半ごろに撮りました。夕飯の準備ために人びとが品定めをしているようです。服装からみて、南方澳へ観光に来た台湾の人たちも多数混じっていたようです。
 人の暮らしと食べ物が切っても切れないものなのだということを改めて感じさせられました。自分が暮らしている場所で捕れた物を、捕れたてのときに手に入れ、すぐに料理するんですものね。
 南方澳には私のお気に入りの海鮮料理屋があって、そこは、見かけはどこにでもあるようなごく普通の食堂なのですが、味はピカ一。魚市で写真を撮ったあと、午後5時ごろに行ってみたら、まだ準備中で、「5時半に開店だ」と言われました。手を忙しく動かし、下ごしらえしながらの応対でした。第2魚市ではないかもしれないけど、きっと、捕れたばかりの魚を仕入れ、新鮮なうちにさばいているのでしょう。毎日毎日、そうやって商売をしている。
 だから、おいしいのかな。私は決して食通じゃないし、味については保守的なほうだと自認しているけど、そんな私でもここへ来れば、食べ物について考えるのです。

2008年9月27日土曜日

土地公祭


 石垣島の土地公祭は今年、予定より1週間遅れの9月21日に開かれました。供え物のブタは2頭。口に噛ませた柑橘類に、台湾独特の細長い線香を突き刺し、そこから煙を立ち上らせます。1980年の土地公祭と比較してみてください。モノクロかカラーかという違いを超えて、風情の違いが分かるはずです。

 今年の土地公祭では、両親が台湾出身、自分自身は石垣島出身という若者に出会いました。高校を卒業したあと、しばらく島を離れていたUターンです。若い華僑が土地公祭に来ているのなら、手伝いやら何やらといった裏方をやっていいように思うのですが、彼は観察者としてそこへ来ていました。幼いころ、一緒に遊んだりしたような世代の華僑もきていて、声を掛け合ったりはしているのですが、彼らが土地公祭に参加しているようには振る舞わない。遠くから見ている。

 「土地公祭に島の人(台湾関係者以外の石垣の人)は参加するのか?」

 「土地公祭に以外の、八重山の祭りにはどのようなものがあるのか?」

 観光客や、つい最近引っ越してきたような人でも知っていそうなことを、彼は私に質問してくるのでした。そんな彼に、私は奇異な印象を受けたのですが、彼のような若者がむしろ普通なのではないかと思い直しました。しばらく島を離れ、本土からの視線で島を見ていた彼が島へ戻ってきたとき、島のことに初めて興味を抱いたのかもしれません。

 それともう1つ。

 彼が、島で生活していたころ、つまり、島を出ていく前、台湾出身の両親を持つという自分の立場に肯定感を持つことができなかったのかもしれません。だから、いかにも台湾的な土地公祭から離れていた。今なら、台湾的なものに接することに抵抗感はなく、逆にもっと触れたいと思うようになった。

 推測してみれば、そのようなことがいえるのかもしれません。

2008年9月14日日曜日

八重山と金門


 与那国島は台湾との距離がわずか100キロ余り。JALのウェブで見ると、県庁所在地の那覇までは316マイル、つまり約500キロ。
 一方、金門國家公園のウェブによると、金門は対岸の大陸アモイまで10キロ、台湾までは277キロ。
 与那国と金門の共通点といえば、どちらも行政の区域でみると、中心から遠く離れているんだけど、国交が成り立たっていない場所とはすごく近いということ。
 共通していないのは、その国交が成り立っていない場所との間を行き来が、金門では可能で、与那国ではほとんどできないということ。
 しかし、与那国と台湾との間の直航は緒に就いたばかり。去年10月に与那国台北、今年7月に与那国花蓮の間を直航チャーター便が飛び、徐々に実績づくりが進んでいます。写真は去年10月に運航した台北発与那国行きの搭乗券です。今年度後半にも船や飛行機による直航便が運航されることになりそうです。与那国町は、台湾との交流を図ることによって、島の経済を浮揚させようとしているけど、島に住む人たちにその成果が行き渡るまでは至っていません。その途上にあるといえます。
 
 この状況に「与那国が自立していくためには、台湾とうまくやっていくしか方法がない」と思う私。ある政治学者にこの話をしたら、似ているようで異なる指摘を受けました。「与那国は、頼るべき台湾がすぐ近くにあるだけ幸せ」とのこと。起爆剤の“軸”となるようなものを探すのだけで大変だ―という地域があるということなのでしょう。
 
 台湾から来た別の研究者と、金門と八重山の共通点や相違点について話をする機会がありました。金門にはいわゆる「小三通」がありますが、その成果は当初予想されていたほどではないし、今後もし「大三通」が始まってしまったら、どうなるのか分からないという悲観的な見方もあるのだそうです。実際に金門を訪問し、その状況をチェックしてみたいものです。与那国のことを頭の隅っこに置きながら、金門のことを見てみると、与那国が台湾との間でどのような関係を結ぶべきか、日台間を往来する人やモノの流れの中で、与那国がどのようなポジションを見いだせるのかを考えるヒントをつかめそうです。

2008年9月12日金曜日

旧暦8月15日




 旧暦8月15日は、今年は9月14日です。
 沖縄県石垣島では、台湾出身の人たちがある祭祀を執り行うのですが、台風13号が接近していて、延期になってしまいました。新しい開催日は21日です。
 この祭祀は土地公祭といいます。 写真は1980年9月23日のものです。
 石垣島に住む台湾出身者が有志を中心にして続けてきた祭祀で、戦中戦後の一時期を除いて、60年ぐらい続いています。祀られるのは「土地公」という土地神。台湾出身者たちが発音しているのを聞くと「土地公」は「トティコン」と聞こえますが、石垣島では「とちこうさい」と言えば通じます。
 祀りでは、ブタを丸ごと供えますが、「丸ごと」といっても、法律的な要件を満たした屠畜場で処理してもらわなければなりません。ところが、その屠畜場が台風13号のために閉鎖されてしまい、お供えを用意できないという事態になってしまったというわけです。

2008年9月8日月曜日

和平島活海産




  「三點螃蟹」を調理してもらったのはこの店。

 この写真の左側に、カニなど海鮮を売る店がずらりと並んでいて、品定めをすることができます。私もそこで買い、この店へ持ってきて、調理方法を指定して、調理してもらうというシステムです。

基隆・和平島のカニ


  おいしそうな色をしていますよね。「三點螃蟹」といいます。甲羅に3つの点があるのでこの名前なんだそうです。2008年9月5日、基隆の和平島にある和平観光魚市で見付けました。カニの季節なんだそうで、三點螃蟹を中心に、生きたカニをいけすで売る人多数。2匹で150元で買い込み、同じ並びにある料理店で蒸してもらいました。蒸してもらうのに100元ということで、合計2匹250元。
 買うときに「肉が多いのを」とお願いした甲斐もあってか、肉がしっかり詰まっていて、味わい深かったぁ。カニって、指が汚れて、においも付いてしまうけど、そんなことにはかまっていられない。無言で食べ続けました。
 カニは食べるのに手間がかかるというか、少量を何回にも分けて口に運ぶことになるけど、この食べ方は私の消化のスピードに合ってるかも。
 ちなみに「螃蟹」は「カニ」のこと。北京語のピンインはpang2xie4です。
 ビールは台湾ビール。大瓶(?)というのかな、ともあれ、瓶ビールが1本90元。コップの大きさが小振りで、私のペースには、これまたぴったり。