2008年10月14日火曜日

新富町

 台北市萬華区大理街。2007年9月3日。MRTの龍山寺站と臺鐵の萬華站の間に位置する通りです。龍山寺站に降りてから、龍山寺のほうへ行かずに、その反対側へ降りると、この辺りに出てきます。私は実際、そのようにして歩いて、ここへたどり着きました。
 人と人の密着ぶりがいいですね。距離を感じさせない親しさに、見ている私の方も親しみを覚えます。
 ここは服を売る店ばかりが並んでいて、愛用の地図帳「大台北全覧 百科地圖」(戸外生活圖書社)には「成衣批發街」と書かれています。成衣(cheng2yi1)は「既製服」、「批發」(pi1fa1)は「卸売り」の意味なので、既製服の問屋街ということになりますね。
 臺灣で面白いのは、似たような商売をする店が固まっている通りがたくさんあること。買う人、仕入れる側の身になって考えると、とても合理的なんですが、売る側が大変だろうなと思ってしまう。過度の競争が起こらないようにするための仕組みとか、商慣行とかがあるんでしょうかね。
 日本時代、この辺りは新富町(しんとみ・ちょう)という地域で、沖縄の人たちがたくさん住んでいました。「臺北市民住所録(内地人ノ部)」(昭和16年版、1940.12.)には、沖縄出身者の名前が655人分掲載されていて、住所別で見ていくと、台北駅北側に位置していた建成町が103人(15.73%)で最多。その次に多いのが新富町で、49人(7.48%)。この住所録が沖縄出身者をすべて網羅しているとは思えないのですが、当時の台北市のなかで、沖縄出身者が比較的集まっていた場所だったということは言ってもいいでしょう。
 新富町に姉が住んでいたという石垣島のおばあちゃんから話を聞く機会がありました。このおばあちゃん、姉が住んでいた場所が新富町だったとすぐに思い出すことができず、「マンカに住んでいた」と言ってから、「新富町」と付け加えました。繁華街だったマンカのイメージが強かったのでしょうね、きっと。姉宅を訪問する時、マンカの駅を利用していたので、あるいはそれが印象に残っていたのかも。

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