2008年10月1日水曜日

昔の琉球人集落


 考古学者の国分直一が南方澳を訪問しています。「民俗台湾」4巻12号に寄せている「海邊民俗雑記(1)」という論文がその訪問記に当たります。この論文のことは、1999年度財団法人交流協会日台交流センター歴史研究者交流事業報告書に「国分直一と《民俗台湾》」(陳艶紅)という論文があったのを読んで、知りました。

 さっそく論文のコピーを取り寄せて読んでみますと、その内容もさることながら、執筆時期が「昭和19年9月15日」となっていることに驚きました。1944年9月15日ということですから、あと1年以内に太平洋戦争が終わるという緊迫した時期に当たります。戦前の南方澳について書かれた論文としては、私はこの論文しか知らないのですが、ほかにもあるのでしょうか。ご教示願いたいところですが、ともあれ、当時南方澳にいた沖繩人の様子を記録した貴重な資料が、終戦間際に作成されたということは留意しておきたいものです。

 国分は次のように書いています。

 「沖繩系漁民は非常に早い時期から遠洋に漁撈し、遠國に移民してゐる。蘇澳郡南方澳にも30數年前に來たといふ漁民がゐる。勿論自由移民である。(中略)我々が採訪したのは自由移民村である」

 南方澳には、台湾総督府の募集に応じて四国や九州から移民が行われており、これは官営移民ということになります。それに対して、沖繩の漁民は任意に自由意思で南方澳へ来ていたので、「自由移民」と表現しているわけです。

 この写真は、自由移民村があった地域で撮影したものです。2007年8月29日。

 バイクが走っているこの道は当時はなかったのではないかと思われます。その向こう側に船溜まりが見えますが、この場所が当時は陸になっていて、集落が形成されていたようです。大きな池もあったといいますから、湿った土地だったのかもしれません。当時、この地域で暮らした経験のある人たちはこの辺りのことを「裏南方(うらなんぽう)」と呼びます。
 国分によれば「この村の20數戸の人たちは古くは30數年前、新しくとも10數年前に來た人たち」なのだそうです。これは沖繩からやってきた人たちのことを言っているもので、出身地は中頭郡、国頭郡、島尻郡、宮古、八重山、那覇、与那国とあります。
 私の最近の主要な研究テーマはこの裏南方の社会を解明することにあるのですが、生活経験者を探し当てるのは容易ではなく、今までにインタビューできたのは3人にとどまっています。論文はといいますと、国分論文は日本語だからいいのですが、中文の「南方澳空間變遷的歷史社會分析」(洪頌評)というものも読まなければなりません。頑張らねば。

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