2008年10月26日日曜日

新營


 3年前の2005年2月27日に撮ってきた写真なのですが、心にひっかかりを覚える1枚です。この写真は、太平洋戦争末期に石垣島の人たちが疎開していた場所の現在の姿を写したものなのですが、そういう事典的な意味付けもさることながら、たたずまいそのものが心の隅から離れません。

 印象深いわけでもなく、ぱっと目を引くわけでもないけど、あまりに普通すぎて、かえって記憶されてしまったのかもしれません。台湾の地方都市なら、どこにでもあるような建物であり、また、典型的な風景。日曜日だったからかもしれないけど、人気もなくて、さむざむとしている。「事典的な意味」がなければ撮らなかったであろう写真ですが、その意味を離れて、気になるカットになってしまいました。

 台南県新營市。台南県の県政府(県庁)があります。

 ここを撮影している私の背後、この建物の向かい側の辺りは製糖工場になっていて、今は操業を停止していますが、日本時代から操業していました。戦争中には攻撃目標にもなっています。

 新營に疎開していた男性の話。

 「製糖工場の倉庫が燃えたときはね、燃えた砂糖がコールタールみたいに真っ黒に排水溝を流れる。砂糖が燃えたら、簡単に消えない。倉庫が焼け終えたあと、倉庫の中で燃えた砂糖を上から掘り下げていくと、下にはまだちゃんとした砂糖が残っている。少し色が付いて、茶色か黄色くなってるし、においもしてるけど、食うモノがないから、あれを腹いっぱい食べて、お腹壊したよ」。

 とにかく食えなかったらしいです。

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