2008年10月4日土曜日

龍潭

 台湾北部の桃園県に龍潭という街があります。台北市内まで車で通勤できない距離ではないらしく、最近はベッドタウン化が進み、人口は11万人。それでも、落ち着きを感じさせる街です。龍潭池という大きな水辺があるからかもしれません。

 1944年夏、この街に疎開者たちがやってきました。沖縄県の石垣島の人たちで、基隆経由でここまでやってきました。当局の指示による移動だったため、連れてこられたという表現が適切かもしれません。人数は100人ぐらいではないかとみらていますが、正確な数字は分かりません。

 彼ら疎開者の状況については、終戦から4カ月経った1945年12月に、龍潭を含む大溪郡に残っていた疎開者について記した台湾側の文書「運送大溪郡琉球列島日籍居民返籍案(大溪郡居住の沖縄出身日本人の送還について)」があります。要旨を紹介しましょう。
 「日本が無条件降伏し、日本政府の特別手当に頼って生活することができなくなったが、日本政府はいまだに手だてを講じることができない。ゆえに、生活困難のため、疎開者はみな心を悩ませている。大溪への疎開者のうち、すでに80人は琉球に帰還した。そのほとんどは蘇澳港から漁船で琉球へ向かった。船賃は大人か子どもかにかかわらず、1人300元以上、荷物は1個100元以上」
 ここで「蘇澳港」と表現されているのは南方澳のことだと思われます。実際、龍潭での疎開を体験した人のなかには、終戦を知るといち早く南方澳に移動し、そこから石垣へ帰っていったという経験の持ち主がいます。
 文書はさらに次のように続いています。経済的な問題が深刻になっていたことが分かります。
 「実際、この高さのため、船賃を工面できず、島に帰れない者が50人いる。調べたところ、その生活は非常に困窮している。もし、政府(中華民国政府)が救済策を取らなければ、餓死のおそれや窃盗などの不法行為が発生するおそれがある。このような疎開者は全島になお多数いる。今、琉球列島はすでに平静になっており、政府には、島内の琉球人を早めに送還し、事件が起こるのを防いでほしい」
 困窮故に犯罪まで起こりかねないほど、疎開者たちは追い込まれていました。
 このように、八重山など沖縄から疎開してきた人たちは1万人以上にのぼりました。太平洋戦争末期という時代のせいでしょうか、彼らの足取りを示した文書が限られたものしかありません。ですから、この「台湾疎開」を知るうえで、体験者たちの証言は重要です。八重山と台湾の間に横たわる歴史の断面の1つを、そこにみることができるのです。

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