2008年10月31日金曜日

円高4

 私の台湾元6074元は、1万8152円になりました。昨日の1万8272円から120円安くなりました。一喜一憂してるわけじゃないんですが、細かく変動するもんなんですね。
 500美元はというと、Yahoo!のサイトで調べたら、4万9310円になっていて、25円という僅かな金額ですが、こちらは値上がりしています。一気に5万円台になるなんてことはないんですね。

2008年10月30日木曜日

円高3

 今日も台湾元6074元です。Yahoo!のサイトで調べたら、日本円にして1万8272円でした。2日前より1000円回復しました。じりじりと台湾元が値を上げていますね。どこまでいきますかねぇ。
 で、もう1つ注目の500美元ですが、こちらは4万9285円。3日前の購入価格より645円の値上がりです。1ドル98.57円なので、銀行での交換したときのレートより1.29円高くなってます。
 今日の午後、麻生首相が新しい経済対策の中身を記者会見していました。財源をどうするかということになってくると、消費税を上げるという話が出てくるのでしょうか。その議論をしている時期と、衆院選の時期って、もしかしたら重なるんじゃなかろうか。選挙のときに税金を上げるっていう話は、普通なら、したくないところですが、今回はどういう様相を呈するのでしょうか。

円高2

 台湾元6074元。今日もYahoo!のサイトで日本円に換算してみました。1万7765円になっていたので、昨日より500円近く台湾ドル高、円安になったということですよね。当面の目標は2万円。何日かかるかなぁ。

2008年10月28日火曜日

円高

 手元にある台湾元は6074元。Yahoo!のサイトで現在の価値を調べてみたら、1万7296円になっていました。円高の影響がありますね。以前は3000元で1万円というふうに見積もっていたので、2万円にはなっていたと思います。だから、価値は3000円ほど目減りしたことになります。
 それで、というわけではありませんが、ドルを買ってみました。銀行の窓口で500ドル買ったところ、4万8640円でした。銀行の窓口は為替相場と直結しているわけではなく、手数料を差し引かれるので、1ドル97.28円のレートでした。
 この先、どう変化してくことやら。

2008年10月26日日曜日

元宵節

旧暦1月15日の元宵節(yuan2xiao1jie2)に合わせて台北市政府前の広場でいろいろなイベントが行われていました。元宵節に合わせて飾る習わしになっている灯籠はご覧の通り。
 2005年2月25日の撮影です。この年の元宵節は2日前の23日ですが、灯籠はもちろん、音楽イベントも行われていました。25日は金曜日でなかなかの人出でした。

新營


 3年前の2005年2月27日に撮ってきた写真なのですが、心にひっかかりを覚える1枚です。この写真は、太平洋戦争末期に石垣島の人たちが疎開していた場所の現在の姿を写したものなのですが、そういう事典的な意味付けもさることながら、たたずまいそのものが心の隅から離れません。

 印象深いわけでもなく、ぱっと目を引くわけでもないけど、あまりに普通すぎて、かえって記憶されてしまったのかもしれません。台湾の地方都市なら、どこにでもあるような建物であり、また、典型的な風景。日曜日だったからかもしれないけど、人気もなくて、さむざむとしている。「事典的な意味」がなければ撮らなかったであろう写真ですが、その意味を離れて、気になるカットになってしまいました。

 台南県新營市。台南県の県政府(県庁)があります。

 ここを撮影している私の背後、この建物の向かい側の辺りは製糖工場になっていて、今は操業を停止していますが、日本時代から操業していました。戦争中には攻撃目標にもなっています。

 新營に疎開していた男性の話。

 「製糖工場の倉庫が燃えたときはね、燃えた砂糖がコールタールみたいに真っ黒に排水溝を流れる。砂糖が燃えたら、簡単に消えない。倉庫が焼け終えたあと、倉庫の中で燃えた砂糖を上から掘り下げていくと、下にはまだちゃんとした砂糖が残っている。少し色が付いて、茶色か黄色くなってるし、においもしてるけど、食うモノがないから、あれを腹いっぱい食べて、お腹壊したよ」。

 とにかく食えなかったらしいです。

2008年10月22日水曜日

鹿谷のワンタンメン


 なんの話をしていたのか忘れましたが、私が「日本から来た」という話をしたのをきっかけに、日本がらみの話題で盛り上がったのでありました。なんだったかなぁ。思い出せないのがもどかしい。
 2006年12月2日の朝はこの店でスタート。ワンタンメンをいただきました。

鹿谷の土地公


南投県鹿谷郷で見付けた土地公の祠。2006年12月2日の朝、鹿谷の町を散歩していて見付けました。左側を通過していく車と比較してみてください。遠近感の関係で、大きさを正確に比べることはできませんが、小ささは分かってもらえると思います。こじんまりとしたところが、かえって目を引きました。

鹿谷。


 南投県鹿谷郷。1999年9月21日に起きた大地震で甚大な被害が発生した地域だと言えば、「あぁ、あなるほど」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
 太平洋戦争末期の1944年から1945年にかけて、基隆に住んでいた八重山出身者が鹿谷に疎開していたことがあります。体験者のお話によりますと、彼ら・彼女らが住んで地域が接収されることになり、鹿谷に移住することになったということです。八重山出身者だけが鹿谷に疎開したというわけではなく、その地域の人たちがまとまって鹿谷へ移ってきたと考えるとつじつまが合うかもしれませんね。
 私は2006年12月に鹿谷を訪問した際、鹿谷郷戸政事務所を訪問し、転入に関する当時の記録を閲覧させていただきました。戸政事務所は戸籍を取り扱うセクションです。
 閲覧の結果、1945年3-5月に基隆から鹿谷に移り住んだ沖縄出身者は少なくとも12家族合わせて39人だったことが分かりました。

 私が鹿谷を訪問したのはこの時と、2006年の5月と6月。お茶所で、朝がとても気持ちの良い村です。また行きたいと思っているのですが、なにせ、山の中。簡単には行けません。台北からだと、バスで3時間余りかけて南投へ行き、そこからタクシーで40分ほど。台北からの日帰りはお勧めできません。鹿谷で過ごす時間が短くなるということもありますが、山村の村特有のひんやりとした空気を味わうことをお勧めしたいからです。

 この写真は土地公廟で、別の記事で紹介した土地公の祠を大きく撮影したものです。朝の鹿谷を散歩しながら、食事のできる店を探していたところ、ワンタンメンを食べさせる良い感じの店があったので、まずはそこで朝食を済ませ、宿へ戻る途中に少し大回りしながら町を歩いていたその道筋で発見しました。
 タイルの大きさは、日本でも風呂場や流しなどで使われいるようなサイズです。だから、祠そのものがとてもこじんまりとしていることが分かりますよね。古びてはいますが、手前に使い込まれたポエがきちんと置いてあるところを見ると、それなりに信仰を集めていることが伺えます。

2008年10月14日火曜日

新富町

 台北市萬華区大理街。2007年9月3日。MRTの龍山寺站と臺鐵の萬華站の間に位置する通りです。龍山寺站に降りてから、龍山寺のほうへ行かずに、その反対側へ降りると、この辺りに出てきます。私は実際、そのようにして歩いて、ここへたどり着きました。
 人と人の密着ぶりがいいですね。距離を感じさせない親しさに、見ている私の方も親しみを覚えます。
 ここは服を売る店ばかりが並んでいて、愛用の地図帳「大台北全覧 百科地圖」(戸外生活圖書社)には「成衣批發街」と書かれています。成衣(cheng2yi1)は「既製服」、「批發」(pi1fa1)は「卸売り」の意味なので、既製服の問屋街ということになりますね。
 臺灣で面白いのは、似たような商売をする店が固まっている通りがたくさんあること。買う人、仕入れる側の身になって考えると、とても合理的なんですが、売る側が大変だろうなと思ってしまう。過度の競争が起こらないようにするための仕組みとか、商慣行とかがあるんでしょうかね。
 日本時代、この辺りは新富町(しんとみ・ちょう)という地域で、沖縄の人たちがたくさん住んでいました。「臺北市民住所録(内地人ノ部)」(昭和16年版、1940.12.)には、沖縄出身者の名前が655人分掲載されていて、住所別で見ていくと、台北駅北側に位置していた建成町が103人(15.73%)で最多。その次に多いのが新富町で、49人(7.48%)。この住所録が沖縄出身者をすべて網羅しているとは思えないのですが、当時の台北市のなかで、沖縄出身者が比較的集まっていた場所だったということは言ってもいいでしょう。
 新富町に姉が住んでいたという石垣島のおばあちゃんから話を聞く機会がありました。このおばあちゃん、姉が住んでいた場所が新富町だったとすぐに思い出すことができず、「マンカに住んでいた」と言ってから、「新富町」と付け加えました。繁華街だったマンカのイメージが強かったのでしょうね、きっと。姉宅を訪問する時、マンカの駅を利用していたので、あるいはそれが印象に残っていたのかも。

2008年10月7日火曜日


 「顔にこんなにいっぱいツボがあるのか?」
 
 一瞬驚きましたが、良く読めば、ほくろ占い。
 
 被写体が豊富な台湾。これまでいろいろと衝撃的な被写体に出会ってきましたが、そのなかでも、一番気に入っているカットの1つがこれ。
 
 2005年2月26日ですから、もう3年半も前の撮影になります。2度目の訪問となった嘉義での撮影です。
 
 台湾に行くと、今ではホテルでインターネットができるのは珍しくないし、ネットカフェがあちこちにありますが、このときの嘉義ではインターネットのできる場所を探すのが結構大変で、それは私の中国語では現地の人にその場所を尋ねることができなかったということも関係があるのですが、ともあれ、かなり長い距離を、確か20分ぐらい歩いて、インターネットカフェへ行ったのでありました。
 
 この「顔」に出会ったのは、そのときのこと。ネットを終えて、宿へ戻ろうとしていた時のことです。嘉義の中心街からやや離れたところで、住宅街との境目辺りだったと記憶しています。夜の9時半ごろになって撮ったんですが、なんでこんな人通りの少ないところにあるのかと疑問でした。昼間はにぎやかなところなのかもしれませんね。
 
 再訪したい気もしますが、この看板がなくなっているかもしれず、そしたらさみしいなぁ。

2008年10月4日土曜日

龍潭

 台湾北部の桃園県に龍潭という街があります。台北市内まで車で通勤できない距離ではないらしく、最近はベッドタウン化が進み、人口は11万人。それでも、落ち着きを感じさせる街です。龍潭池という大きな水辺があるからかもしれません。

 1944年夏、この街に疎開者たちがやってきました。沖縄県の石垣島の人たちで、基隆経由でここまでやってきました。当局の指示による移動だったため、連れてこられたという表現が適切かもしれません。人数は100人ぐらいではないかとみらていますが、正確な数字は分かりません。

 彼ら疎開者の状況については、終戦から4カ月経った1945年12月に、龍潭を含む大溪郡に残っていた疎開者について記した台湾側の文書「運送大溪郡琉球列島日籍居民返籍案(大溪郡居住の沖縄出身日本人の送還について)」があります。要旨を紹介しましょう。
 「日本が無条件降伏し、日本政府の特別手当に頼って生活することができなくなったが、日本政府はいまだに手だてを講じることができない。ゆえに、生活困難のため、疎開者はみな心を悩ませている。大溪への疎開者のうち、すでに80人は琉球に帰還した。そのほとんどは蘇澳港から漁船で琉球へ向かった。船賃は大人か子どもかにかかわらず、1人300元以上、荷物は1個100元以上」
 ここで「蘇澳港」と表現されているのは南方澳のことだと思われます。実際、龍潭での疎開を体験した人のなかには、終戦を知るといち早く南方澳に移動し、そこから石垣へ帰っていったという経験の持ち主がいます。
 文書はさらに次のように続いています。経済的な問題が深刻になっていたことが分かります。
 「実際、この高さのため、船賃を工面できず、島に帰れない者が50人いる。調べたところ、その生活は非常に困窮している。もし、政府(中華民国政府)が救済策を取らなければ、餓死のおそれや窃盗などの不法行為が発生するおそれがある。このような疎開者は全島になお多数いる。今、琉球列島はすでに平静になっており、政府には、島内の琉球人を早めに送還し、事件が起こるのを防いでほしい」
 困窮故に犯罪まで起こりかねないほど、疎開者たちは追い込まれていました。
 このように、八重山など沖縄から疎開してきた人たちは1万人以上にのぼりました。太平洋戦争末期という時代のせいでしょうか、彼らの足取りを示した文書が限られたものしかありません。ですから、この「台湾疎開」を知るうえで、体験者たちの証言は重要です。八重山と台湾の間に横たわる歴史の断面の1つを、そこにみることができるのです。

2008年10月3日金曜日

龍山寺




 古いものと新しいものが渾然一体となっているのが、台湾の魅力だと言ってもいいし、わたくし自身にとって、何が新しいものであり、何が古いものなのかを気付かせてくれるのが台湾の魅力だといってもいいと思います。


 2007年9月3日、龍山寺に初めて足を踏み入れました。台湾で寺院では、老若男女を問わず、人びとが常に熱心に祈っていますよね。今でも、若い人たちが細長い線香を手に祈る姿は新鮮で、そのような姿を日常的に見ることのできない私にとっては、今もって珍しいと感じられる姿です。


 龍山寺でさらに新鮮だったのは、見る角度によっては、近代的なビルディングに囲い込まれているような錯覚に陥ること。さらに、そのビルディングを包む全面鏡張りのような窓には、一昔前は最先端であったであろうビルディングのその古ぼけた姿を見せています。私のなかでは、寺院や寺院で祈る人びとの姿は古いものと感じられ、近代的なビル群には新しさを、古ぼけたビルには自らと同じ位置関係を感じられているということなのだと思います。


 龍山寺に足を踏み入れ、祈る人びとの姿をカメラに収めようと試行錯誤するうちに、新旧に対する自らの受け止め方を再確認させられることになりました。

2008年10月1日水曜日

昔の琉球人集落


 考古学者の国分直一が南方澳を訪問しています。「民俗台湾」4巻12号に寄せている「海邊民俗雑記(1)」という論文がその訪問記に当たります。この論文のことは、1999年度財団法人交流協会日台交流センター歴史研究者交流事業報告書に「国分直一と《民俗台湾》」(陳艶紅)という論文があったのを読んで、知りました。

 さっそく論文のコピーを取り寄せて読んでみますと、その内容もさることながら、執筆時期が「昭和19年9月15日」となっていることに驚きました。1944年9月15日ということですから、あと1年以内に太平洋戦争が終わるという緊迫した時期に当たります。戦前の南方澳について書かれた論文としては、私はこの論文しか知らないのですが、ほかにもあるのでしょうか。ご教示願いたいところですが、ともあれ、当時南方澳にいた沖繩人の様子を記録した貴重な資料が、終戦間際に作成されたということは留意しておきたいものです。

 国分は次のように書いています。

 「沖繩系漁民は非常に早い時期から遠洋に漁撈し、遠國に移民してゐる。蘇澳郡南方澳にも30數年前に來たといふ漁民がゐる。勿論自由移民である。(中略)我々が採訪したのは自由移民村である」

 南方澳には、台湾総督府の募集に応じて四国や九州から移民が行われており、これは官営移民ということになります。それに対して、沖繩の漁民は任意に自由意思で南方澳へ来ていたので、「自由移民」と表現しているわけです。

 この写真は、自由移民村があった地域で撮影したものです。2007年8月29日。

 バイクが走っているこの道は当時はなかったのではないかと思われます。その向こう側に船溜まりが見えますが、この場所が当時は陸になっていて、集落が形成されていたようです。大きな池もあったといいますから、湿った土地だったのかもしれません。当時、この地域で暮らした経験のある人たちはこの辺りのことを「裏南方(うらなんぽう)」と呼びます。
 国分によれば「この村の20數戸の人たちは古くは30數年前、新しくとも10數年前に來た人たち」なのだそうです。これは沖繩からやってきた人たちのことを言っているもので、出身地は中頭郡、国頭郡、島尻郡、宮古、八重山、那覇、与那国とあります。
 私の最近の主要な研究テーマはこの裏南方の社会を解明することにあるのですが、生活経験者を探し当てるのは容易ではなく、今までにインタビューできたのは3人にとどまっています。論文はといいますと、国分論文は日本語だからいいのですが、中文の「南方澳空間變遷的歷史社會分析」(洪頌評)というものも読まなければなりません。頑張らねば。